へとへと5月

「本当に好きだよ」 って、よく言われた5月でした。 いいえ、勘違いです。惚気ではありません。そろそろ惚気たいです、荒んでるのも疲れてきちゃったし(笑) …げふんげふん。 では何故、へとへとなのか。 それは自分がその向けられる愛情に9割応えることができなかったからです、というよりは、応えなかったのかなあえて。 先に言うと1割はバスケです。 いつも通りです、あざます。 出来ないなら、出来るなんて言わなければいい。 潰れるのなら、他人のことまで抱え込まなければいい。 最後に泣くのなら、強がって粋がって八方美人をしなければいい。 人は、人を想っている振りをするのが上手すぎる。その上で、それを見破るのも上手なんだ、きっとね。 誤魔化しながら、強がりながら、後悔しながら突き放しながら、それでも縁を紡いでいくものなのでしょう。 危機感よりは、失望でした。 私は私なりに、割と出来る精一杯を注いできたつもりだったし、だからこそ数字という一つの正解が出たことには素直に嬉しさを感じました。 私はここに何を見出して 私はここにいる人たちに何を期待して 何を期待されて どんな刺激を受けて どんな刺激を与えることができて 時に怒られながら 時に謝りながら 時に疑問をぶつけながら そうやって、私自身が成長させてもらう代わりに、大学生ならではの視点を出来るだけ置いていければいいなぁと思ったのだけれども。 届いていなかった訳では決してないって分かってる。 全てはタイミングで、そして状況的には私にも十分に非があった。 私がもう少しプライベートに寛容な心を持てていたら、ほんの少しでも過程を認めることが出来ていたのなら、おそらく同じ結果には至らなかったと思う。 「それが、餓鬼だって言っている」 それも、嫌ってくらい理解してる。 同じことをまた繰り返して、時が経って微笑みながら、後悔してる、なんて言ってみる。 そっちの方が良いって思ってしまったんだから仕方ない。 理念は崇高だと思う。 私はどちらかというとジェンダーだから、「女の人」って括られること自体が嫌で嫌でたまらない。 それでも、現に困っている人がいて、その人たちにある程度のレベルの線引きをしたうえで救おうと手を差し伸べるのは、素晴らしいことだと思う。 事実、私がその人生に少しでも関わった人たちは、みんな女性だった。 けれど、だからといって内部が無法地帯であって良い理由にはならない。 「自分を愛せない人が、他人を愛する資格はない」 最後の決め手は、この1点だったのかなぁと。 私も、今でも「大好き」なんです。 けれど、いつだって道が交わるかと言ったら、そんなこともないんだと思います。 私は道を違えたけれど、学んだことも、感じたことも、知らず知らずの内に芽生えた気持ちも、全部きちんと抱きしめて。 もう一回、ここから。 2015.06.02 (救ってくれたのがバスケだった) (つまるところ、人は依存なしに愛を返せない)

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