あのデモはなんだったのか
最近twitterよりもFacebookに顔を出す回数が多いことには明確な理由がいくつかあるのですが、そのうちの一つが、Fbのほうがニュース要素が高い記事がTLに流れ込んでくるからです。
2014年にかなり友達の数が増えて、しかもその友達がシェアを積極的に行う人たちばかりなので、種々様々な分野のニュースが舞い込んできます。
その中で最近特に気になったのが、イルカ漁と、今日書こうと思っている「デモ」に関してです。
渋谷でのデモに関しては、一過性のもので、あまり聞かなくなったので、そろそろひっそりと書いてしまってもいいかなと思ったしだいです。
Facebookの記事で読んだのは、学生モデルだか、学生アイドルだかを行っている「ごく普通の女の子」が政治問題に対してデモを起こすしていることが、なかなか素晴らしい行為ではないか、という趣旨でした。
今回わたしが気になったことは、デモ行為そのものに意味があるかということではなくて、そもそも、なぜデモ行為に至るまでになってしまっているのか、ということと、もう一点、世間にそんなに称賛される行為を彼らがしているのかということです。
1つ目に関しては、安保関連法案の改正を望む自民党と、それに反対する野党と、もうひとつ、一応の対案を用意している維新の会、大きく分けて3軸での国会での論争が話題になりました。
憲法9条と集団的自衛権の共存が果たして可能であるのか、憲法学者の9割が違憲だと判断した、アメリカにこれ以上媚びへつらってどうする、などといった意見を聞きました。
デモを行っている人たちの主な訴えは、集団的自衛権を認めることによる、自衛隊の海外派遣やそれ以上の武力行為を認めることは、戦後ずっと守ってきた憲法9条を手放すことになる。安倍首相は自分が戦地へ行かないから、好き勝手なことを言っているだけだ。というところでしょうか。
言っている意味はよくわかります。
もちろんわたしは戦争擁護派ではないので、戦争をしないに越したことはないでしょう。平和が一番ですし、今のまま人間が欲にまみれた生活を続ければ、遅かれ早かれ地球は滅ぶと思うので、それまで仲良く暮らせばいいと思っています。
デモ行為に関しても、「したい人がすればいいのではないでしょうか」という感情が、根底にはあります。
しかし、その一方で、デモをしている人たちに一度でいいから聞いてみたいことが、「あなたは総選挙の時に、一体どこの党の候補者に票を入れたのですか?」ということです。
前回の総選挙は2014年12月に行われた通称、アベノミクス解散でした。
結果は言うまでもなく、自民党の圧勝でした。この選挙に本当に意味があったのかということに関しては、今は触れないことにします。
自民・公明両党へ集まった票はかなりざっくりですが2600万票(ただし小選挙区の票に限る)。全体の票を5300万票としましょう。投票した人の49%は現在の与党に自身の票を投じたということです。
元記事をブクマして置き忘れたので違う記事を参考にさせていただきますが、デモに集まった人が2万5000人。学生も多かったとのことですので、全員が有権者でないのですが、母体数が多いので、そこは今回は無視することにします。
確率論の話をするくらいなら実数を取ってこいという理論はよくわかりますが、個人のブログなので、ここまで書けば言いたいことは分かっていただけるのではないかと考えます。
もしミラクルが起きて、デモに参加した人たちのすべてのひとが、自民・公明両党以外の候補者に票を投じたというのであれば、わたしは全力で謝罪をしなければなりませんが、そんなことはないという自信があるので、このまま続けますね。
安倍さん率いる与党を勝たせた時点で、こうなることはある程度、いえほぼ予測できていたのではないでしょうか。
安倍さんは第一次内閣の時から、もうずっと、本当にずーっと、憲法を改正したくてしたくて仕方がないんです。そして日本がより戦前に近いところで活動できるようにしたいと切望している政治家でした。
今21歳の私がこのことを覚えているんです。忘れた、知らなかった、そんな理由がまかり通るのであれば、結論は「有権者がバカ」ということです。
集団的自衛権についても同じこと。安倍さんを勝たせたのは紛れもない有権者です。
「自民以外に投票する党がないから」
だから、なんなんですか?
わたしがこのデモ行為に申したいことは、「権利には義務が伴う」ということ。有権者は確かに参政権を持っています、法的な権利として憲法ではっきりと規定されています。だからこそ、自分たちの一票にはそれ相応の義務も発生します。
憲法9条を改正したくて仕方ない安倍という政治家を当選させたのは、その取り巻きたちの多くを自民党だからという理由で当選させたのは、間違いなく有権者です。こうなることを予測できなくて、いざ現実に迫って「そんなのおかしい」というのは、あまりにも自分の権利と義務の重みが違いすぎると思うのです。
もちろん、野党に投票した人たちは、堂々とデモをすればよいのではないでしょうか。それを責めることができるのは、その時間に渋谷にいて、公共の場を占拠されたことによる交通妨害を食らった人くらいでしょう、わたしはおうちにいましたので、文句は言えません。
集団的自衛権を認めてしまうのか、憲法9条を放棄してしまうのか、論点以前に、自民を選んだ国民が、「そんなのおかしい。9条を守れ」と一生懸命デモをしている行為が、わたしからすると、奇妙にしか思えないのです。共感どころか、応援する気持ちすらわいてきません。
デモを行っている人たちが行うべきことは、この法案が成立したときに、高い確率で起こるであろう憲法改正のための論議を、先回りして伝えることではないんでしょうか。
確かに一度投げてしまった票をとりけすことはできません。どんなに政治家が無茶苦茶だと思うことをしていたとしても、わたしたちに引きずり下ろす力はないのです。
しかし、憲法改正の発議はちがいます。100%、確実に国民投票があるからです。たとえ衆参両議院の高い壁を越えてきたとしても、国民投票で半数の賛成票を獲得できなければ、その時点で政治家の努力はぽしゃることになります。
今度こそ、国民がきちんとNOと意思表示をすればいいだけのこと、国民の大半は戦争になんて行きたくないでしょうから(ネトウヨですら、いざその時がきたら絶対に喚くに決まってます)、デモのエネルギーを国民への周知へと向けたほうが、よっぽど生産性のある活動だと私は思います。
次に、ごく普通の学生が、政治的な主張を行うことはスタンダードにならなくてはいけないだなんだと主張したことに対する称賛について。
そんなのいつもしてるよ、と思わずにはいられないのですが。
ずいぶんと、大学生はなめられたもんだなと感じます。
わたしの大学では、昼休みになると安倍政権に異議を唱えよう、という旨の演説をする人がどこからともなく現れます。誰一人足を止めて聞く人はいませんが、突発的なデモなんかよりずっと前から、自民党にはっきりとした否定を唱えている人がいます。
ゼミでも、この問題について話し合いました。
授業でこのことを取り扱う先生も大勢いらっしゃいます。
もう一度、繰り返してもいいでしょうか。
もうすでにスタンダードになっている人なんか、たくさんいるんです。
申し訳ないけれど、デモで主張した女の子なんかより、よっぽど極ふつうの女の子と男の子です。勘違いしないでくださいね、私はデモをした女の子のことを責めるつもりはまったくありません。
私が、本当にどうしようもないと思うのは、それをホイホイ取り上げて「国民の声を今一度、よく聞いてほしいですね」なんてどや顔をかましているマスコミです。
そして、それを褒めたたえる人たちです。
話題性があることだけ取り上げるのはマスコミの性質上いたしかたないでしょう。しかし、デモをすることがイコール政治のことを考えている、という図式だけでは成り立たないことがたくさんある。そんなことは当たり前です。教室で、議論することだって、十分に政治のことを考えています。安倍さんに対する擁護論、批判論、いろいろな意見を聞きます。
でも、そういう人たちは、取り上げようかと話題にすらあがらないではないですか。
結局、派手なもの、イレギュラーなもののレアケースに人は惹かれているだけではないでしょうか。
ヤンキーだった人が少し品性をただすと、信じられないくらいほめられるのと同じ事です。
それは、物事の本質なのか。
マスコミにこの視点がないことが、よく分かる一例だと思います。
同じ日ではないのかもしれませんが、NHKが香港のデモは取り上げたのに渋谷のデモは取り上げなかったと、笑いまくっていた人がいましたが、私が笑えないのはこれらの理由からです。
やはり、わたしのマスコミ不信はなかなかぬぐうことができません。特に、SNSが発展し、Webライター、Web媒体が主流になった今、冷静に考えるとちぐはぐな記事に、いいね!をする人がたくさん出てきてしまう…。
抱くのは、危機感です。どんどん、わたしたちは住みにくい世の中を自分たちの手で作り上げてしまっているのではないでしょうか。
民主主義は画期的かもしれない。
けれど、最大の弱点は、民主主義を担うはずの国民が馬鹿だったら、何も生み出さないという点。
国民が賢くないと、民主主義は機能するどころか、わたしたちに牙をむいてきます。
それを分かっていない国民の中の、さらに本質を見つめようとしていない非日常に快楽を求めている人たちによる、とるにたらない寸劇。
中身がスカスカだな、とそんな感情を抱いてしまう、渋谷のデモ行為でした。
2015.07.04
(やっと自分の想いを言葉にできて)
(とてもすっきりしています笑)
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