知恵を、黙する
背筋がぞっとした。
あそこには、今、私の知り合いがたくさん行っている。
私自身も行ったことがある。
夏に帰って来た子もいる。
私と同じように、多くの人が、パリでの同時多発テロに同じような反応を示したのではないかと思う。
パリにいる子だけではなくて、ヨーロッパに行っている友達全員の安否が確認できるまで、どこかそわそわした気分で過ごした休日だった。
こんな時、SNSは便利だと思う。
相手が一言、「無事です」とつぶやいてくれれば、「無事なんだ」と確認ができる。
情報は錯そうするけれど、大手通信社や新聞社が持っているアカウントだけを信用して記事を読んでいけば、時間が経つごとに自分の中に情報量は増えていく。
リテラシーをきちんと持つことさえできれば、この上なく便利なツールだと思う。
けれど、デジャブがFacebook上で起きる。
フランス国旗がたくさん現れる。
期間限定で。
Pray For Paris
そうだ、数か月前に、七色にプロフィール写真が変わったのと同じように。
都庁、東京タワー、スカイツリーはトリコロールにライトアップされた。
パリのエッフェル塔は営業を停止した。
スケートのフランス大会はフリープログラムが中止になった。
世界中が悲しんでいる。
あの、偉大な首都が、テロという絶対悪の標的になったことに。
それはそれで、当たり前のことだ。
あれだけの惨事が起きて、お悔やみの感情よりも前に政府を批判したり、実行犯を罵ることのできる一般人はそうはいないと思う。
けれど、ものすごい違和感がある。
「フランスでテロが起これば話題になる。子供が何百人と殺害されたって、話題にすらあげてもらえない国もあるのに」
「世界全てのことを俯瞰して生活するなんて無理だ。だからできることをやる。その一環でプロフィール写真を変えただけだ」
「別にやりたい人が勝手にやればいい」
「スポーツの力で元気づける」
「テロだけは絶対にあってはならないものだ」
「日本もいつ標的になるか分からない。対岸の話ではないと思う」
本当に、そうなのか、って。
こういう時、なのか、SNSが発展して、なのかは分からない。
でも、大きなことが起こるたびに私は思う。
知恵の沈黙を貫く人が、減ってきていると。
知っていることを、想っていることを、その時の喜怒哀楽を、発信せずにはいられない人が多すぎる。
どうしてそこで黙せないの?
そう感じることが多くなっている。
それに嫌気がさすのは、本人は匿名性の守られた、安全な世界にいるからだと思う。
テロはダメだ。許されるものではないし、そしてそれは何かで償うことができるものではない。
でもじゃあ、どうして、なんで。
彼らはそんなことをするのだろう。
それは、先進国が搾取をした時代があったからであって。
それは、先進国が勝手に国境を決めたからであって。
それは、先進国が自国の利益を優先して政治利用してきたからであって。
わたしたちに全く罪がないって、誰なら言い切ることができるのだろう。
悪と正義という二軸を勝手に作って、わたしたちは悪ではない、と言い切ることが、本当に正解なのかな。
可哀想だと言う人は、何を以て可哀想だと言うのだろう。
沢山の人が殺されたから?
じゃあこれが30人だったら?
2人だったら?
政治犯が殺害されていたのだとしたら?
ホームレスばかりが狙われたのだとしたら?
フランスばかり心配してもらえると言う人は、じゃあ、貴方はどれだけのことを同時に心配できていると言うのだろう。
あなたの街で起きた、テロに比べたらとりとめもない交通事故は?
酔っ払いに絡まれた女子高生は?
痴漢の濡れ衣をきせられたサラリーマンは?
人が、他人を心配するとき。
私と、実際にどのような関係があって、一体その人はどんな痛みを感じて、その痛みが想像できるから、心配するんじゃない。
誰かにとっての大切な人が、これまた誰かにとっての大切な人によって傷つけられた。
もし、何かの加減で、「誰か」が自分の大切な人になったらどうしよう。
そんな言いようもない不安から、そしてそれが「絶対にない」とは言い切ることができない世界だから。
だから、心配するんでしょう。
心配している自分が
何かアクションを起こしている自分が
遠い地に想いを馳せている自分が
そんな自分が主役になってしまうのは、やっぱり違うと思う。
賛同も、非難も。
もう少し、自分の中にしまっておいていいんじゃないかな。
だって、両極端にあるような意見を、誰しもが胸中に抱えているはずだから。
発することだけが、考えている事ではない。
それをずっと知っていないといけない。
考える振りをするくらいなら
黙していたほうが、ずっとかっこいい。
2015.11.16
(黙してなお感じる)
(知性を大切にしたい)
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